自分の選択ミスや避けられない運命によって、辛い出来事に遭遇することもありますよね。
家庭内のトラブルや学校でのいじめ、職場でのいじめ、恋愛や結婚によるトラブルで嫌なことが起こるなんてよくあることです。でも、その出来事によって辛く苦しい経験をした後、その恐怖心やその出来事によって起こった洗脳から抜け出せないことがあります。
起きてしまったことは変えられない。そう分かっていても、そのことが起きなければ平穏でいられたのでは無いかと勘違いしてしまうのです。そうはいっても人生には何らかの問題が起きるので山に一人ででも籠らない限りそれは幻想だと思います。
過去に囚われている人はその過去なしでは生きていけない
辛かった思いや過去の後悔などを人に話すことによって消化させていくことは一つの手段だと思います。ただその過去を消化しようとしないで、その過去を今の自分の自己正当化に使っている人がいます。
それをすると「その過去のせいで、その過去のおかげで今の私がある」という過去と自分との結びつきを切り離せなくなり、過去の出来事を忘れたり、ただの思い出話にすることができないのです。
自分の「今」がこのような状態であることは、日が経たないうちはその出来事の整理ができずに今の自分にも影響があるかもしれません。過去の悪い出来事は部屋中に飛び散ってしまった墨汁の染みのようなもので、それを少しずつ拭いてきれいにしたり、衣類などの汚れが落ちないものは捨てて交換していくように、自分の考え方やその出来事にが作ったものを変えていくのです。
何年も経っているのにその墨汁の付いた汚れたTシャツを着て「これは昔の出来事のせいなんだ」と誰かが言っているとしたら、誰のせいなのでしょう?
少なくともそれを聞いた人は「買い換えたらいいんじゃない?」と提案するでしょう。
でもそれをしないには理由があります。
「自分は可哀想な人間なのだから優しくしてください」と暗に他人への脅し材料にしているからです。
その過去をを今の自分に利用しているから、今の瞬間に起こった出来事すらも過去のトラウマや過去の影響のせいにして生きているわけです。
可哀想な自分が一番大事なのである
他人のために何かをしようとしない人、他人の思いに気付こうとしない人は、大抵自分が可哀想な人であり、自分が可哀想と思われ優しくされることに関心があるため、他人に優しくしようとか他人のことを知ろうというのは、あくまで表面上の態度です。
だから他人が自分をどう思っているのか、自分に同情してくれて優しくしてくれるかどうかに関心があり、自分でそう見せる材料として過去の出来事をアピールしているのです。
他人にはその行動が自分のためであり、他人に本当は関心が無いということがわかる人には透けて見えているので、本当に大切にされることはなく、他人に裏切られたという感覚を当の本人は何度となく味わうことになります。
自分が可哀想な人間でいる限り幸せにはなれません。自分が可哀想な自分に他人が関心を持ってくれることを求めるように、他人も自分に関心を持ってくれない相手と付き合うことは嫌なのです。
もしあなた自身が過去に囚われてしまっているなら、ただただ過去の出来事を感情の昂ぶりが落ち着くまで書くなり、話すなり消化して、これからどうなれば過去のせいにせずに生きていけるのかと考えていくことが大事だと思います。
感情的なダメージと現実の生活に関するダメージは分けて考えるのが大事だと思います。
生活を変えていくことの方が今すぐ実行できます。物を捨てたり、片付けたり、住む場所を変えたり、ちょっと朝早く起きて窓を開けるというちょっとした変化でも気分や生活が大きく変わってきます。
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